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日光のはじまり−関東の一大霊山「日光山」−

天海大僧正【てんかいだいそうじょう】

慈眼堂
 天海大僧正(慈眼大師【じげんだいし】)は会津大沼郡高田郷の人で、1536年(天文5年)生まれと伝えられています。幼名は兵太郎、10歳のとき随風といい、55歳のとき天海と改められました。
 幼少より聡明で、14歳のとき宇都宮の粉川寺の皇舜僧正のもとで学び、更に比叡山、三井寺、奈良の興福寺、足利学校、上野の善昌寺などで天台、法相、三論、禅、日本の古文学、儒教などを研究されました。数々の寺院の住持となられ、その間に武田信玄、後陽成天皇などに法を説き、1610年(慶長15年)75歳のとき、駿府城【すんぷじょう】にて始めて徳川家康【とくがわいえやす】のまえで論議を開きました。この時、家康は68歳でしたが、天海に感銘され「もっと早く天海に逢いたかった。」と言われたそうです。
 1613年(慶長18年)78歳のとき、日光山の住職となられました。天海が生前、家康に仕えたのは7年間で、のち二代将軍秀忠【2だいしょうぐんひでただ】、三代将軍家光【3だいしょうぐんいえみつ】に仕え、各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・黒衣の宰相として徳川のために尽力されました。
 1616年(元和2年)75歳で家康が亡くなられます。天海は、以前より残された遺言によって東照宮の造営を差配されます。1617年(元和3年)3月に完成、これを「元和の造営【げんなのぞうえい】」といいます。後の家康二十一回忌の法要を機会に三代将軍家光とともに大改修を計画され、1636年(寛永13年)3月に現在の華麗なる社殿を造りあげました。これを「寛永の大造替【かんえいのだいぞうたい】」といいます。

天海大僧正の墓石
 天海の功績により、この頃の日光山は20院80坊、数百人の僧侶と社家、奉仕人で賑わっていたと伝えられています。
 薬師堂【やくしどう】、妙道院【みょうどういん】、相輪とう【そうりんとう】などを残され、三将軍に仕え、江戸の寛永寺【かんえいじ】と日光山の住職として活躍し1643年(寛永20年)東叡山【とうえいざん】において108歳で亡くなられたと伝えられています。天海によって日光山は空前の繁栄をし、その功績をたたえ「日光中興の祖」と称されています。
 遺言により日光の大黒山に埋葬され、墓石は巨大な五輪塔で、近世における代表作ともいわれ、信仰の対象としてはもちろんのこと、芸術的にも貴重なものだといわれています。墓所に拝殿を建てて「慈眼堂【じげんどう】」と称しています。そののち、日本で7番目のお大師様となりました。日光では「お大師様」といえば慈恵・慈眼【じえ・じげん】の両大師のことになります。
 天海の残されたご遺訓なかに「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細くして、心広かれ」とあります。これを守ると108歳まで長生きできるとか、少しでも近づきたいものですね。

エピソード 明智平【あけちだいら】

秋の明智平
 日光中禅寺【にっこうちゅうぜんじ】に向かう いろは坂を登ると素晴らしい景色が見られる明智平があります。名づけたのは天海大僧正【てんかいだいそうじょう】といわれています。
 天海は「明智光秀【あけちみつひで】」であるという説があります。
 明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、京都の合戦に敗れ竹やりに襲われ亡くなったと伝えられていますが、襲われたのは影武者で、光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたというのです。
 寺では、信長に焼き討ちをされたので、その敵を討ってくれた光秀を優遇したといわれています。長寿院にて是春と名のり、剃髪して仏教を学んだそうです。
 比叡山の文庫のなかに大僧都にまでなった光秀の名がはっきりと記載されてあるそうです。
 光秀は、天海として家光に色々と教示し、その天海が昔の名をどこかに残しておきたくて、日光で一番眺めのよい場所を「明智平」と命名したと伝えられています。
 比叡山長寿院にも、願主光秀、慶長20年2月17日の日付で灯籠が寄進されているそうです。

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足立廣文氏の
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