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日光のはじまり−関東の一大霊山「日光山」−

将軍家康・家光【しょうぐんいえやす・いえみつ】ここに眠る
 天下人となられた徳川家康【とくがわいえやす】は、日本国中どこにでも墓所を建てられる権力者です。どうして日光を選んだのでしょう。それは、日光が日本国中で最もすばらしい聖地だからだと言われる方がおります。
 家康は生前、日光に一度も来ておりません。では、日光を知らなかったのか?いいえ、知っています。相談役であり政治顧問の天海大僧正【てんかいだいそうじょう】からたくさんの話を聞いていたのです。ですから、家康は遺言を残します。「自分が死んだら遺体は久能山【くのうざん】におさめ、葬儀は芝の増上寺で行ない、位牌は故郷の大樹寺に置き、一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建ててまつりなさい。関八州(関東地方)の平和の守り神となろう。」そして、1616年(元和2年)4月、駿府【すんぷ】で75歳の生涯を閉じられます。神としてまつられた徳川家康は、関八州のみならず日本全土の平和の守り神となられました。
 家康の両親は薬師信仰に篤く、峰の薬師(三河の鳳来寺)に祈願して生まれ
薬師如来の生まれ変わりだといわれています。東照大権現【とうしょうだいごんげん】とは、「東に照る(東方薬師瑠璃光)如来が権りに現れた神」という意味なのだそうです。天海の一言で権現号が決まり、のちに宮号が与えられ東照宮と称するようになります。

東照宮
 天海は、家康の遺言どうり1617年(元和3年)日光山に墓所を移します。
 二代将軍秀忠【2だいしょうぐんひでただ】により社殿が完成されます。この時の建物は現在のような豪華さはありませんでした。これは、秀忠が極めてまじめな人で派手をこのまなかったからといわれています。秀忠が建てられた社殿の一部は、群馬県世良田の東照宮に移されましたが、これを「元和の造営【げんなのぞうえい】」といい、日光の東照宮【とうしょうぐう】の創建とされます。
 1618年(元和4年)黒田長政により大石鳥居(日本三大石鳥居)が東照社に寄進されます。松平正綱は、1625年(寛永2年)から20年にわたり日光道中に杉並木を植えられています。これらのひとつひとつをとっても、家康の人柄が偲ばれます。
1632年(寛永9年)秀忠が亡くなられ、家光【いえみつ】が三代将軍となられます。
 家光は、常に祖父家康を尊敬し、なおかつ、神のように信仰されていました。その報恩のひとつの方法として、家康二十一回忌の法要を機会に大改修を計画します。
 現在のような華麗なる社殿が完成したのは1636年(寛永13年)の3月のことです。実に1年5ヶ月というスピード工事で、その神わざのような出来上がりには、甲良豊後守宗広【こうらぶんごのかみむねひろ】を大棟梁として、大阪城などの大建築にたずさわった経験者を京都、奈良方面から集めて完成されたといわれています。まさに、桃山時代から江戸初期にかけての建築技術や技巧を駆使された素晴らしいものです。これを「寛永の大造替【かんえいのだいぞうたい】」といいます。
 東照社の造り替えが完成するとオランダ商館から銅灯籠【どうとうろう】が贈られ、朝鮮使節が参詣され、春日局【かすがのつぼね】も来山しお参りされています。松平正信により杉並木寄進碑が建てられ、酒井忠勝より五重塔【ごじゅうのとう】が贈られるなど、益々日光山は賑わっていきます。
 1645年(正保2年)東照社権現に宮号がくだされ東照宮と称するようになります。翌1646年(正保3年)に、朝廷よりの使いが来山され、これ以来、毎年恒例となり例幣使【れいへいし】が始まります。
 家光は1651年(慶安4年)4月、48歳の生涯を閉じられます。遺命により、日光の大黒山に葬られます。祖父家康への孝心から「死んだあとも東照公(家康)のそばでお仕えする。遺骨を日光山に送り、慈眼堂【じげんどう】のとなりに葬ってくれ」と遺言を残されたそうです。

大猷院
本殿
 その遺志を受けた四代将軍家綱【4だいしょうぐんいえつな】により1653年(承応2年)4月に大猷院【たいゆういん】が完成しました。遺命どおり大猷院は慈眼堂の北にあり、正面は東北の東照宮に向かって造られています。平内大隅守応勝【へいのうちおおすみのかみまさかつ】を最高技術者として建設され江戸時代初期の代表的建築とうたわれています。
 家光が東照宮以上のものを望まなかったので「細部の装飾は東照宮に遠慮し、簡素にすること」との方針で、金と黒を基本にし、目立たない部分に技巧が凝らされている素晴らしいものです。
 1868年(慶応4年)戊辰戦争が起こります。大鳥啓介の率いる旧幕府軍と、板垣退助の率いる官軍との決戦の場が日光に近づきます。当時の官軍の戦法は、大きな建物や人家を焼き払うことでした。日光の社寺も危ないというので、話合いのうえ、日光の地では戦争をしないことになりました。このとき命懸けで使命を果たした、厳亮【げんりょう】、道純【どうじゅん】、慈立【じりゅう】などの功績があったからこそ日光の社寺は守られたといわれています。
 時を同じくして、東照宮では身の危険を感じ、ご神体と神宝を長持に入れ、社家・神人【しゃけ・じにん】その他30人でこれを守り、密かに日光山を脱出されました。栗山、会津、出羽、仙台、大田原を経て、約7ヶ月ぶりに無事に日光山に戻られました。これを「神体動座【しんたいどうざ】」と称し一つの秘話となっています。
 1871年(明治4年)、神仏分離令が通達されます。このときから東照宮【とうしょうぐう】、輪王寺【りんのうじ】、二荒山神社【ふたらさんじんじゃ】に分かれ、神仏習合の歴史が覆されてしまいました。祖先の残された文化財が破壊される大事件となり、数年間続いたなかで日光の人々はこの悪令を非難し、山内の現状維持を訴え、1880年(明治13年)に願いが聞き届けられます。たくさんの日光を思う人たちによって現在の景観が守られたのです。
 1876年(明治9年)6月には、明治天皇が日光に訪れ「旧観を失わざるよう」と救いの手をさしのべられました。このとき明治天皇は現在の中禅寺湖【ちゅうぜんじこ】にも訪れ「幸の湖【さちのうみ】」と名付けられています。
 観光地として名が知られている日光ですが、歴史をたどれば「神と仏の住む聖地」であり、世界に誇る文化財でもある日光を、もう一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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