大 瀧 晴 子


 日光という地名は、その昔、二荒(フタラ)の音読みに佳字を宛てたことにはじまると伝えている。フタラは二荒の山、日光連峰の中心に秀麗な山容を見せる男体山である。
 日光の二字が選ばれる前は、二荒の訓読みに観世音菩薩の住みかである、補陀洛(ほだらく)の字を当て、二荒山は補陀洛山といった。前人未到のこの山に、何度も失敗しながら登山をくり返し、15年の苦心と努力ののち、ついに極めたのは、奈良時代の天応2年(782)3月、観音信仰にあつい勝道上人とその門弟の一行であった。
 上人は、その後3度目の登頂の時、三神のあらわれる姿に遇い、感涙にむせびつつ親しく拝したと伝えられる。その時、同行の弟子の一人は、袖に神の姿を写したという。

 現在も毎年夏、男体山頂に登る登拝祭が行われ、数千人もの人々が真夜中の太鼓を合図に、中宮祠の登山口から登り始める。登ること4時間、夏とも思えぬ寒さにおどろきながら標高2484メートルの頂上に立つ。東の雲海が次第に明るむ。やがて御来光を待ちかまえていた登拝者たちが、いっせいにシャッターを切りはじめる。
 私はふと、1200年前、同じ山頂で袖に神の姿を夢中で描きとめたという、勝道上人の門弟のことを憶う。事実かどうかは別の問題である。ただ感動の瞬間の、これこそ写しのこさねば、という気概だけは、昔も今も変らぬ真実として伝わっている。
 勝道上人はいま、麓の輪王寺三仏堂の入口近くに、道しるべのように立っている。昭和29年に建てられた銅像である。銅像は動かざる畏敬の対象と思っていたが、この像は時には生きているような親しみを感じさせる。足立さんの写真がキッカケであった。
 朝焼けの空を背に、錫杖を立てて足をふん張った姿は、志に燃えてはるか補陀洛の山頂をめざす上人の勇姿であり、頭上に、肩に、腕に、雪をいっぱい負い、足下を雪に埋めた上人は、皚々たる白雪にはばまれて登頂を断念した時の、苦悩の姿とも見える。現在の感動が、カメラを通して1200年前の勝道上人をよみがえらせ、求道と苦難の姿を見事に写し出している。
 これまで誰もこのような勝道上人像を写したことはなかった。信仰と自然と歴史にはぐくまれた、ふるさと日光を限りなく愛する、足立さんにしてはじめてなし得たといえよう。
 日光が東国の聖地として1200年の歴史を持ち、類まれな自然と、多彩な文化財に恵まれているにもかかわらず、1冊で日光全体を網羅した写真集は、意外なことに今までみられなかった。殆どが社寺、風景、植物など、ひとつのテーマを主としていた。いささか物足りなく思っていたところへ、日光の写真家として定評のある足立さんが、たんねんに撮りためた、自然、文化財、行事等を始め、四季の変化、ひごろ日光で見られる、しかも見逃され勝ちな行事や風物をも含めた写真集を出されることになった。特に足立さんが勤務されていた日光輪王寺の所蔵で、通常では見られぬものも含まれると聞き、期待と喜びは大きい。
 観光客が大勢訪れる日光は、限られた時間にきまったところだけを見て、あわただしく去る人が多い。だが中には「日光の見どころって、もっとありそうな気がするなあ」とつぶやきながら帰ってゆく若い人もいるように、感動をもたらすものの存在を肌で感じながら、探るすべもなくおわっている場合もある。観光客は概して引込思案なものである。
 足立さんの写真は、そういう時、両手を拡げて日光の魅力へいざなうだろう。

 日光は自然の中に信仰と歴史と伝説が現代に息づき、汲めどもつぃきぬ魅力となっている。
 日光で最初に出会う伝説は、朱塗りの神橋についてだろう。日光へ入ろうと大谷川の峻崖まで来た勝道上人が、川を渡ることが出来ず、一心に祈ったところ、深沙大王が現われ、二匹の蛇を投げて橋とし、その上に山管を敷いて上人を渡らせたのが、古名山管橋の由来という。橋の北向かいには深沙大王の祠があり、由緒を語っている。周囲の老杉は天に連らなり、緑が朱の橋をいっそうきわ立たせる。
 山管橋が朱の神橋となったのは東照宮が出来てから、将軍の通行用としてであり、一般の通行を禁じ、朝廷から遣わされる例幣使と、冬峯の行を終えた山伏だけが例外であった。
 山伏といえば、日光は修験の山でもあった。鎌倉時代から室町時代、特に盛んであった日光修験は、東照宮創建後も神橋渡橋の特権で気を吐いている。神橋の近くの四本龍寺や金谷ホテル前には護摩壇がいまでもある。修験の名残りは山中や中禅寺湖畔にもある。中禅寺湖の船禅頂もそのひとつといえよう。元旦未明の輪王寺三仏堂前の採燈大護摩は、夜空を焦がして壮大である。
 修験が栄えた室町時代をすぎ、江戸時代になると東照宮が創建されて日光の中心となった。当時既に800年以上の歴史を持つ信仰の地日光が、徳川の聖地ともなり、新たに絢爛豪華な社殿宝塔を建て、初代将軍家康公を東照大権現としてまつったのである。
  東照宮の建築については、どの案内書にもくわしい説明があり、観光客もそのきらびやかな装飾や彫刻に目を見張る。それらに加えて、徳川幕府260年の歴史の中で東照神君を崇拝しつつ生きた人たちの心を思いやって、境内のそこここを見る時、興味は倍加する筈である。
 境内には諸侯献納のおびただしい燈籠が立ち並ぶが、銅鳥居の内、陽明門石段下両脇には、仙台の伊達政宗と薩摩の島津家久献納の燈籠が北と南の守りの如く立ち、外様大大名の意気を示している。石段上の陽明門直下には20数基の譜代大名献納のうちに、明和2年東照宮150回忌の銘の入った、田沼意次の燈籠もある。
 拝殿で参拝し、石の間と幣殿を見学して西側の縁に出ると、中庭の奥にキササゲの大木が社殿の屋根を越えんばかりの高さに枝を拡げている。雷除けのため、五大将軍綱吉が植えさせた一本で、既に296年を経ている。現在の社殿の彩色は、綱吉による元禄の造替に基礎があるという。将軍になってからは一度も日光社参の夢を果たせなかった綱吉の心が託されているかのように、いまも社殿の最も近くで神君雷から守るキササギである。
 このように東照宮の境内には、崇敬あつい古人の心が生きていて、結構善美が一層なつかしく感じられるのである。このことは三代将軍家光公の大猷廟 の場合も同様である。

 日光の春の行事は、八汐つつぃじの開花と共にはなやかに拡げられる。4月13日から17日まで二荒山神社の弥生祭が行われる。14日、神輿渡御の行列が東照宮に差しかかると、東照宮の宮司以下神職が揃って出迎え、神輿を駐め、神饌を供えて酒迎えの神事が行われる。東照宮が地元の神に敬意を表し、二荒山神がそれを受ける、和やかな神事である。
 5月17日、東照宮の例大祭では、三基の神輿は二荒山神社の拝殿に宵成りし、祭神は一夜、二荒の神と同座される。翌18日も両社の神職によって神事が行われ、それから千人行列が出発する。
 例大祭には徳川宗家十八代御当主が、正装で東照宮拝殿将軍着座の間に着かれ、古式通り儀式が行われる。
 この日午後、徳川宗家は大猷廟を奥の院まで参拝される。観光客はみな勇壮な流鏑馬に興じていて、大猷廟は誰もいない。
 日光の調和と共存は、歴史の深みを現代に活かして、由緒ある社殿・堂塔や行事を、自然の景観の中に浮かび上らせている。
 日光を知りたいと心を開く人たちの前に、足立さんの写真集は、最良の手がかりとなり、日光の魅力を展開することと思う。

(おおたき はるこ 日光史談会会員)

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